登る人No.020 迷走の考究

登る人No.020 迷走の考究

この春から、生活の拠点を街から低山の連なる山間部へと移した。山に囲まれた生活。そして3ヶ月が過ぎた。どうやら、最近のわたしは、北アルプスや南アルプス、通いすぎて新鮮味がなくなっていた八ヶ岳にすら愛おしさを感じるようになっているようだ。Facebookで友人達の投稿を見ては、そういえば、奥美濃とか、白山とか、そうそう奥秩父とか、行ってないところたくさんあったなあとぼんやり思いふけったりしている。今のわたしにとって、山は遠くにありて思うものであり、あの太陽にキラキラと輝く岩の峰や、異国を思わせるシラビソの森、ハイマツを撫でて爽やかに吹き抜ける風が恋しくてたまらない。山がそんな遠い存在になってしまっている。朝から晩まで、山に囲まれているというのに。

ああ、わたしは何か大きな間違いを犯してしまったのだろうか。そんなぞっとする、恐怖にも似た感覚が沸き起こった。こんなジメジメとした深い谷での生活に落ち着けるところなどどこにもない。山に囲まれていても感じる、この心にぽっかりと穴の開いたような気持ちは一体何なのだろう。
そんなことを思いながら、わたしを取り囲む黒々とした針葉樹の人工林を睨みつけた。

なんだかささくれ立った気持ちになってはしまったが、いつの間にかわたしの頭の中の焦点は、古今の冒険や探検、先鋭的な登山をする人たちへと移っていた。
あの人たちは、なぜあんな命の危険を冒すようなことを、自らの意思で行うのだろうか。そして、冒険家、探検家、登山家と名乗ったり周りからそう分類される者の中で、どうなんだろうと思う人もいれば、この人わけわかんないけど、すごすぎてわからないのかもしれないと思う人がいることの違いについて考えを廻らせ始めた。

わたしはその答えの一つに、本多勝一氏があげる冒険の定義の3つ目、「その時代における最も現代的意味をもつもの」(※1)という言葉がキーワードになっていると思っている。そこが、どうなんだろうと思う人とわからなさすぎてすごいのかもしれないと思う人の違いなのではないかと睨んでいるのだ。

「現代的意味」をわたしはこう解釈する。その時代にしか生まれなかったもの。その時代だからこそ生まれたもの。それは、移り変わる時代のその時、そこから偶然にではなく、進化の過程のようなものとして発生したものなのではないかということだ。つまり、その時代性がその冒険や探検や先鋭的な登山に反映されていてこそ、それ自体が冒険や探検や先鋭的な登山となりうるのではないかということだ。

冒険においても探検においても、先鋭的な登山においても、地理的な空白はもはやないと囁かれ、その価値を示し辛くなっている今の時代、一体どんなことが時代性を含んだ冒険や探検や先鋭的な登山として認識されるのだろう。
様々なものが細分化され、外野の人間にはわかりにくくなった分野は多い。従来のカテゴリーに押し込めるのにも無理があると感じるものもある。そんな中で「現代的意味」を持つかどうか、はモノサシとしては有効ではないかと思う。ただし、「現代」を語るにはそれなりに「過去」を知る必要がある。だからムズカシイ。
わたし自身が「現代」を語るにはあまりにも無学なのだが、それでも、最前線をさらに推し進めたのではと思うような記録を目にすることがある。そういうものには他を圧倒するような存在感がある。今まで聞いたことがないと思わせると同時に、安っぽい言い方ではあるが、時代の目撃者となったような気持ちを抱かせる。それが抽象的すぎはするが「現代的意味」なのではないだろうか。

そして思うのである。そんな時代にいるわたしはどういう山登りができるだろうかと。個人の挑戦なので並べるべくもないが、それでもそんな考えを持って山に向かうことで何かの枠を超えて時代を推し進めることができるかもしれない。例えば、情報に頼りきった登山から抜け出すとか。一様な「一般登山者」としての枠から抜け出す方法はきっとあるはずだ。何を選び取るかは自由なのだ。

山って素晴らしい。こんな風にいろいろ考えを含めることができるのが、山の魅力でもあると思う。そして山を舞台にした様々な物語に思いを馳せたつつ「自分がナンセンと肩を並べたような心地よい錯覚」(※2)を味わう。それもまた、山を相手にする魅力の一つなのではないかと思ったりする。目の前に山はある。そうか、これはもう想像力の問題なのかもしれない。


参考文献
※1 本多勝一 文庫版『日本人の冒険と「創造的な登山」』東京 山と溪谷社 2012年
(「ニセモノの探検や冒険を排す」朝日新聞社 朝日講座『探検と冒険』第7巻 1972年および「現代の冒険』晩聲社 の序文を合体整理)

※2 角幡唯介 文庫版『探検家の日々本本』東京 幻冬舎文庫 2017年