登る人No.023 山に持っていく本

登る人No.023 山に持っていく本

 山に行く時、人は何かお楽しみを持っていく。軽量化に逆らって酒ビンを持参する人、食料を大量に担ぎあげる人、音楽を持ち歩く人、目の前に現れる景色をレンズで捉えようとする人。わたしの場合は、「本を持っていく人」である。山で本の世界に没頭する時間は贅沢だと思う。テント泊だと持て余す長い夜、読書は下界から隔絶された世界へと連れて行ってくれる。しかし、どの本を持っていくかの選択は悩みだすと案外すっぱりと決断が下せず、出発前の慌ただしい時間をさらに圧迫する要因となったりすることがある。

 本の選択はフローチャート的に考えることができる。つまりいくつかの選択の分岐点を通過し、決定に至るというプロセスをたどるということだ。まず最初の分岐点はすでに読んだことのある本を持っていくか否かではないだろうか。読んだことのある本には間違いないという安心感があり、読んだことのない本にはどんな話だろうかと未知へのワクワク感がある。それぞれのデメリットとしては、読んだことのある本は予定調和であるという点で面白みに欠け、読んだことのない本は面白いかどうかがわからないというリスクがある。予定調和の安心か未知への挑戦か。この問答はまるで登山そのもののようである。でも本の選択を誤ったとしても死んだりはしない。それならば冒険してみたらいいのではないだろうか。ということで、読んだことのない本を持っていくという選択をし、次の分岐点に向かおう。

 分かれ道を読んだことのない本の方へ進むと、次はその山行の内容に似た本を持っていくのか、全く違う内容の本を持っていくのかの分かれ道に出合う。さてどちらに行こうか。例えば、冬山2泊3日の山行のために本を選んでいるとしよう。どうしようかなあと考えながら未読のまま積んである本たちを見やると沢木耕太郎の「凍」が目に入った。ルートの難易度を調べるようにネットで検索してみると、Google booksでは星4つ。なかなか期待ができそうな星の数だ。内容は、ヒマラヤの難峰にある氷壁に挑む山野井泰史と妻妙子の壮絶な闘いを描いた作品。これが良さそうだと手にとって、表紙を眺めながらこの本を冬山で読む自分を想像してみた。
 読み始めるのは夕飯を食べ終わり、トイレも済ませてシュラフに潜り込んだ後だ。辺りはすっかり暗くなっているが、時計を見るとまだ19時にもなっていない。普段なら、まだ仕事をしている時間だなあなどと思いながら、朝が来るまでの長く寒い夜を前にちょっと憂鬱になる。そんな時、ザックからビニールの密閉袋に入れた本を取り出す。ヘッドランプに照らされたページをぱらりとめくると、テントをパタパタと風があおり、さらさらと撫でるような音がし始めた。どうやら雪が降り出したようだ。外は寒いが、シュラフは温まってきた。心地よい疲れも相まって、ぼんやりと本を読みすすめる。・・・が、読んでいる本は「山野井夫妻の壮絶な闘い」である。時間を追うごとに闇は深くなり気温は下がる。目は冴え、シュラフから出ている指は冷たくなり、足先がテントの壁に当たるとシュラフを通して冷えが全身に伝わる。そのゾクゾクとした感じが、本のクライマックスと重なる。別世界レベルの山行なのに、リアルな寒さが現実感を引き出し、本の面白さを倍増する。本には絶好の読むタイミングがある思うのだが、現実の環境が本の世界を補足するときも、そのタイミングを捉えたと言えるだろう。
 
 そういえば、友人が北海道へ沢登りをしに行った時、人食い熊の本を持って行ったと話していた。いつ熊と出くわすかわからない環境にいながら、人食い熊の本を読める友人のメンタルの強さに感心して話を聞いていたが、どうやら立ち寄った無人小屋にその本を置いて帰ってきたらしい。熊に怯えながら小屋に着いた登山者が置き去りにされた人食い熊の本を見てどう思うだろうか。わたしだったら、なんて悪趣味なことをする奴だと、恐怖心をあおる本の存在と置いていった犯人に憤りすら覚えてしまいそうである。でもこれは考えようによっては面白いといえるのかもしれない。誰が置いていったのかわからない本を手に取り、ページを開く。書かれている内容は自分がいる山域とさして遠くない場所の話。もしかしたら壁の向こうで人食い熊が鼻をピクつかせているかもしれない(人食い熊は壁を突き破って室内へ侵入するらしい)。ああ、なんで読み始めちゃったんだろう。ただただハッピーエンドという救いを求めてページを追うが、どこまでもその気配はない。この恐怖にどこまで耐えられるのだろう。まるで度胸を試されているかのようだ。本を閉じたら負けである。

 ただこの場合、途中で本を閉じたとしても、恐怖は決してあなたを手離したりはしない。熊がガオーっと襲ってくる映像は頭の中で何度もリプレイされ、ガオーっと襲われた自分が血まみれで横たわる姿を想像し恐れおののくことになるのだ。そしてそれは、下山が完了するまで続く。いや、もしかしたら山に入るたびにふと頭をよぎるようになってしまうかもしれない。こうなると、登山そのものが、恐怖との戦いとなる。本の世界と現実の山が共鳴し自分の中で作り上げた極度の恐怖心という名の敵に立ち向かい、勝利を勝ち取る登山。心を奮い立たせて一歩一歩を前に進める自分はまるで勇者のようではないか?それってもしかしてかっこいいかも。そんな風にかつて本で読んだ英雄に自分を重ね合わせて悦に入ったりする。熊に限らず、何らかの恐怖と戦いながら、自分自身と向き合うことが登山のもつ魅力のひとつだと言えるのならば、本の選択が自分史上最高の登山をもたらすことがあるのかもしれない。ただし、いちいちそんなことを考えて本の選択をしていると一向に荷物の準備ははかどらないということになるのだが。


朝日陽子