登る人No.025 揺れ

登る人No.025 揺れ

 真っ暗闇の車の運転席でうつむくと、体全体がゆったりと不規則に揺れているようだった。それはまるで波の動きを体に写し込んだみたいに、大きくなったり小さくなったり、突然止まってさっきとは違う方向になったりした。気持ち悪くはない。むしろ海に体を預けて漂っているようで心地よかった。顔を上げて駐車場の街灯に目をやるとその感覚は消えてしまったが、再びうつむき、暗すぎて焦点の定まらない足元を見つめていると、体の中で繰り返す揺れが戻ってきた。

 車の中で体に残る揺れを楽しんでいたこの日を含めた3日間、わたしは奥琵琶湖にいた。角幡唯介さんがカヤックをはじめる時にお世話になったという大瀬志郎さんにカヤックを教えていただくためだ。必死で強烈だった3日間で、毎夜、その日に起こった出来事の記憶をうまくつなぎ合せられないもどかしさを感じながら眠りについた。寝袋の中で目を閉じると横なぐりの風に雨粒が混じり、それが顔に叩きつけてきたことや舳先(へさき)で波がぶつかりあいカヤックの先端が一瞬浮き上がったこと、パドルが跳ね上げる水しぶき、遠くに見えた2本の桜の木なんかが頭に浮かんだ。

 どの断片的な記憶にも根底に流れるものは同じで、漕ぐという行為に集中する心地よさだった。この3日間、穏やかになったかと思えば、風とともに雲が流れきて冷たい雨を降らせるような春特有の不安定な天気に翻弄され、思うように漕ぎ出すことができなかった。湖上に出ると山を越え谷間を吹き降ろしてくる風が狭まったところで力を集約し、より強さを増して湖へと吹き込んできていた。「岬の向こう側がちょっと波立ってるでしょう?」と大瀬さんの言葉に促され目を向けると、確かにわたしがいるところよりも水面がささくれ立った樹皮のように見えるところがある。「風下側に流されるので、風上のほうへ向かいながら最後は追い風に乗ってあの岬まで行きましょう」わたしにはさっぱりできない判断なだけに、言われた通りついていくしかない。安全地帯を大瀬さんの背中を追って漕ぎ出ると、横殴りの風を全身に受けた。

 漕ぎ切るしかない。目に見えない力に圧倒されながら思っていたことはこれだけだった。手を止めたら自分がどこに流されてしまうのかわからない。流されてしまったら戻れるかどうかもよくわからない。山だったら足を止めて息を整えていてもその場から他の力で動くことはない。でも、水の上では手を止めたら同じところに居続けることはできない。漕ぎ続けるという選択肢しかない状況で一心不乱にパドルを動かした。

 動かないでいられることと動かされてしまうこと。自然を相手にした行為の中でこの違いはものすごく大きい。自分で制御できるものの質が変わってしまうからだ。「大きな違いは地面が動くか動かないかですよ」というようなことを初日に大瀬さんが言っていたが、その言葉の真の意味を自分なりに実感できた気がした。自分があらがわなければ自然に動かされてしまう。あらがい続けなければ波間を漂う木の葉同然でどうなってしまうかわからないし、無理な力で制御しようとすれば、その反動が自分自身に跳ね返ってきてしまう。その微妙な力加減は山にいるときには味わったことのないものだった。新鮮だった。


 体が記憶した波の動きに揺られながら、海を旅し拡大していった人類の足跡のことを考えていた。と同時に、いつかテレビで観た南太平洋に浮かぶ小さな島の住人たちの海とともに生きる様子を思い出していた。不意にドアがバタンと閉まるような音が聞こえて顔を上げると、老夫婦が雨の中を小走りでかけていった。体の中に記憶された揺れは遠のき、車のエンジンをかけると完全に消えてしまった。車のアクセルペダルを踏み込む感覚はパドルで水面を捉えたときにカヤックがスッと前進する感じによく似ていた。