登る人 No.026 服部文祥さんのサバイバル登山を勝手に考える

登る人 No.026 服部文祥さんのサバイバル登山を勝手に考える
服部文祥さんのサバイバル登山を考えるとき、どうしても野生的なイメージが先にくる。ケモノを狩り解体し、岩魚の皮を口を使って剥ぎ、蛇やカエルを食べ、焚き火で調理し、タープの下で眠る。テレビ番組で放送された、山深い谷で滑落してボロボロになりながらも生還した姿に衝撃を受けた方もいるだろう。
「サバイバル登山とは、できるだけ自分の力で山に登ろうという試みである。装備に頼らず、食料や燃料を現地調達しながら、長期間、道なき山の中を旅して歩く。」(※1)ただ一見しただけだと、原始人の暮らしの再現かちょっと野蛮な趣向を、山に持ち込んだだけに見えるかもしれない。少なくともわたしはそう思っていた。
著書「サバイバル登山家」を読むと、サバイバル登山を始めたきっかけについての記述を目にすることができる。それは、できるだけ道具を排し自分の手と足だけで岩を登ろうとするフリークライミング思想に触れたという意外な起点から始まる。フリークライミング思想の根本をなすものは岩に対してフェアに向き合い、だからこそ自由であるという発想だ。困難な場所を登ることを可能にするハーケンやアブミなどの道具を使わず、手と足だけを使って、「自分の力で登ること」(※2)そのものを求めるフリークライミングは、例えば「酸素ボンベと固定ロープを使って登ったK2大遠征」(※2)のような道具があるから登ることができた登山とは別物だった。小川山でフリークライミングルートを登っ た服部は、「自分の力で登ること」を肌で実感し、その思想を登山に求めることはできないかと考えた。思想の具現化としてサバイバル登山が誕生したのである。そして初めてとなる南アルプス大井川源流でのサバイバル登山から約20年が過ぎようとしている。
狩猟は、サバイバル登山を構成する要素の中で強く印象に残るものではないだろうか。著書「狩猟サバイバル」(※3)では、冬期サバイバル登山への挑戦とそれに伴う食糧確保のための狩猟の様子が生々しく描かれている。鉄砲を使用して大型の獲物(鹿やイノシシ)を捕らえ、それを食べながら登山を続ける様子には、もはや我々が思う登山のイメージはなく、もっと生きることそのものを経験するためのフィールドとしての山が浮かび上がる。
そんなサバイバル登山を、探検家でありノンフィクション作家である角幡唯介は近著でこう解説した。「・・・サバイバルスタイルを導入することで、この山をおおっていた現代システムの網を取り払い、山自身が本来持っていた本性をよみがえらせた。」(※4)。便利な道具は人の能力を補足し、予測可能な範囲を広げる。でも、そういった道具を排除すると、人の目の前には容易に制御することのできない生身の山が現れる。普段何気なく使っている高機能のウエアは寒さや濡れから身を守り、バーナーが火の取り扱いを確実なものにし、ヘッドランプが明るさを、GPSなどの電子機器などが情報を与えてくれる。そういったものは、山が本来持つ厳しさからわたしたちを守ってくれるのだが、逆に山との距 離感を遠くしているだろうし、もっと言えば山にいるのに山にいないという状況を生み出しているのかもしれない。あらゆるテクノロジーに守られた現代的登山を構成するひとつひとつの要素に生真面目なほど向き合う服部文祥の答えがサバイバル登山の中にあるように思うのだ。
「狩猟サバイバル」の中に印象的な一文があった。
「それが今の私の自由と限界の山である。」
あふれる情報に翻弄されず、自分を見据え、考え、創造し、覚悟を決めて挑む、そんな自由と限界を知る登山をもっと深く考えたら、日本の山はもっと面白い場所になるかもしれない。山は本来そういうそれぞれの思想をぶつけることのできる場所なのではないだろうか。見慣れた景色が、意識の変化でガラリと姿を変えるその瞬間を、どうしたら自分のものにできるだろうか。そう考えながら服部の著書を再び開いたのだった。
〈参考文献〉
※1 服部文祥『サバイバル登山入門』 東京 株式会社デコ 2014年
※2 服部文祥『サバイバル登山家』 東京 みすず書房 2006年
※3 服部文祥『狩猟サバイバル』 東京 みすず書房 2009年
※4 角幡唯介『新・冒険論』 東京 集英社インターナショナル 2018年
6月13日に服部文祥トークイベント「サバイバル登山」を開催いたします。
詳しくは、
https://noboruhitopeoplewhoclimb.blogspot.com/…/blog-post.h…
をご覧ください。
朝日陽子