登る人No.030 副作用

登る人No.030 副作用

 おととしのことだが、友人から年末年始の休暇を利用した積雪期大峰山脈横断に誘われ、その計画内容からなんとなく厳冬期黒部横断を想像し怯えていたことがあった。行程の長さも、雪の量も、谷の深さも全てがまったく比べ物にはならないが、ナーバスになりすぎたわたしは、身近な人と話をしていても、「ああ、これが最後になるのかな」と、どこかで別れを意識したような気持ちになったり、もしかしたら本で読んだあのクライマーもこんな気持ちだったのだろうかと自分と重ね合わせては、沈んだ気持ちになっていた。
 しかしそれほどまでに追い詰められても、無事に全てが終わってしまうとすっかりその時の気持ちが遠のき、あの複雑な感情の起伏を思い出せなくなってしまうのは、とても不思議だし、惜しいような気もする。

 実際の山行中はどうだったかというと、わたしにとってこれほど出し切ったことはないというほど、体力的にも心理的にも追い詰められたもので、危ないところに差し掛かると頭の中で鳴るアラームが3日間鳴りっぱなしのような状態だった。常に120パーセントの体力と気力を持っていないとパートナーについていけないような状況に「なんでこんなことしてるんだろう・・・」と茫然としてしまうこともあったが、自分自身の想像力と技術や判断の限界を自力で超える体験であり、強いパートナーのおかげで、自分のことにだけに集中していればいいという時間には単純な喜びもあった。

 そんな危険な年末年始が終わり、平穏な生活に戻ってしばらくすると、いろいろなものの見え方が変わってしまった気がすることに気がついた。それはこの山行の副作用と呼べるようなもので、ひとつは、自分の限界を押し上げることに面白味を感じるようになったことだ。自分にはできないと思っていたことができたという経験は、自信につながるし、より大きなものをイメージできるようになり、今まで見えなかった景色が見えてくるところがある。
そしてもうひとつの副作用は、あのやばいかもしれないというヒリヒリした刺激をもう一度味わいたくなることだ。それは単純な中毒性を伴い、その刺激は前回よりも強くないと物足りなくなる特性を持っていて、タチが悪い。

こういう気持ちはこの「登る人」を主宰していても感じている。
今年もこの場を使って、刺激に満ちた1年を送りたいと思っている。


朝日陽子